水戸新屋敷と桜

 水戸市新荘3丁目付近、ここはかつて「新屋敷」と呼ばれた場所でした。

 天保7(1836)年、9代藩主斉昭公は、定府制で江戸詰めの家臣が多く負担の多い水戸藩の改革の一環として、家臣の一部を国元に帰住させる方針をとります。空屋敷・空地などを宛がいましたが、それでも不足しているので、当時の常葉村にあった畑地(陸田)を屋敷地に整備して桜・松・梅・桃・柳・花・桐・紅葉・常磐と小路名をつけて30以上の屋敷割りを行いました。その50年前の天明6(1786)年に書かれた『水府地理温故録』(以下『温故録』)に「諸人呼んで新屋敷といふ」とありますので、屋敷割以前からこの地は「新屋敷」とよばれていました。

 『温故録』に以下の記述がみられます。「…午より中山備前守下屋敷原分と有。案るに、寛文六の午なるや…(中略)…真中に御殿と称せる一郭有。今は囲ひのみにして御館は廃せり。かの御殿と称せる惣囲ひには桜樹多し。これは風軒君の御物好きにて植れ給ひし、名におふ数種のさくら也とぞ。」

 ここには極めて重要なことが書かれています。まずなぜ「新屋敷」だったか、それは水戸藩家老の筆頭でいわゆる附家老で松岡領(藩)を与えられた中山備前守の下屋敷があった場所だったために「新屋敷」の呼称がうまれたということです。そしてこの場所を拝領したのが寛文6(1666)年午年のことだった、ということです。この時光圀公が藩主として5年目39歳という年、前年朱舜水をもとなって就藩し、寺社整理を断行するなど、意欲的に藩政を展開し始めた時期でした。当然下屋敷を与えられたのは光圀公の命でしょう。当時の中山家の当主は信治でしたが、慶安2年に隠居して風軒と号していた先代の信政がまだ元気に活躍していました。『新編常陸國誌』によると、中山家の初代信吉は河和田村と見川村にはさまれた地域に両村の名をとった見和新田を開発し、自らの家臣たちを住まわせ見和村としていました。見川村丹下地区にも「備前山」と称する旧名が伝わることから、桜川(当時は箕川)をはさむ一帯に中山家の所領があったことが想像されます。中山家はここを藩に納めて代替地として得たのが「新屋敷」だったのです。

光圀公と中山信正(風軒)は中山の別荘で枕を並べて寝たり、詩歌も数多くやり取りするなど主従関係を超えた親密な間柄でした。また、信正は「方丈記」の解説書を書くなど、文人としての一面を持ち合わせていました。そうした教養人である信正が光圀公も深く愛した桜に関心を寄せないわけがありません。「名におふ」=桜の名木や名勝の種や苗を数種集めて、この新屋敷に植えたのでした。それが120年を経た『温故録』執筆当時まで盛んに咲いていたのです。斉昭公の国元帰住政策は植樹と思われる年から170年もたっていますので樹がどれほど残っていたかはわかりませんが、「真中に御殿」がありその名残の「惣囲ひには桜樹多し」と言っているわけで、古地図と照らし合わせると斉昭公が定めた「桜小路」の場所はほぼ符合すると考えてよいでしょう。つまり光圀公の時代の重臣中山信正の植えた桜の記憶が、「桜小路」の名に引き継がれていると考えてよいでしょう。

中山家は信敬の時代の寛政6(1794)年に、松岡(高萩)の領地に復帰したため、この新屋敷を返上し、その後中山家は当主信敬が水戸藩主宗翰公の九男であったため、独立志向が高く、松岡で基盤を固めていきます。明治元年、宿願を果たし立藩した松岡藩。中山家家老松村儀太夫の子、松村任三は幼少期英才の誉れ高く斉昭公の御前で四書五経を読んだと伝わります。松村は明治時代に植物学を学び東京大学植物学講座の教授に就任し、のちにソメイヨシノの学名命名者になったことは奇縁というよりほかありません。

また、中山家の封地見和村も一部桜川に面していて、中山家が新屋敷に移転したあと、光圀公が元禄4年に桜川へのヤマザクラの植樹をはかって呼称を「桜川」と改めさせたことも、新屋敷の桜となんらかの関連性があるのではないか、と想像を掻き立てられます。

現在、桜と縁ある新屋敷桜小路には、名残の桜はありません。難しいことかもしれませんが、ここにヤマザクラや枝垂桜が育てば歴史的景観の復活につながることになるのではないでしょうか。

 

【参考文献】

『水府地理温故録』(茨城県史料近世地誌編)

『中山家家譜』(茨城県史料近世政治編Ⅰ)

『新編常陸国誌』中山信名編(積善堂、1901)

『水戸を語る』前田香径(水戸を語る出版会,1931)

『水府綺談』網代茂(新茨城タイムス社,1992)

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