光圀公と老女高尾~櫻町と妙雲寺の桜~

光圀公と桜の物語に、欠かせぬ女性がいる。高尾という水戸家に仕えた奥女中である。

『水府地理温故録』(以下『温故録』と略す)*1によれば、高尾は元和3()年の生まれというから光圀公より歳年上ということになる。

初代藩主頼房公の時代から水戸徳川家の奥に仕えた女性である。同じく光圀公の侍医井上玄桐の『玄桐筆記』には、正室泰姫の侍女で、生涯光圀公の傍近くに仕えた唯一の女性・左近局が、高尾本人から聞いた話として、光圀公1歳の頃、ちょうど在国中だった頼房公から高尾に対して、光圀公を「汝の養子にせよ」と戯れにいわれた、というエピソードが残されている*2。伝わる高尾の生年からすると御殿女中の見習いとしても若年に過ぎる気もするが、ともかくも乳児期の光圀公を知っている数少ない女性の一人であることは間違いない。

高尾に関する詳細な伝記はないが、生母から切り離されて育った光圀公にとって、高尾は、まさに母とも姉ともいえる存在だったのではないだろうか。光圀公の幼少時については乳母の三木之次夫妻の存在がよく知られているところだが、三木夫妻と同様の立場にいたということが考えられる。また後年は水戸家の奥を取り仕切る立場にあったようで、それを示すかのように、光圀公は老境に入り御殿勤めを退いた高尾に水戸城下に屋敷を与えて住まわせている。初めは“杉山内うきやらい”という水戸城の北側の那珂川側に住んでいたが、のちに、櫻町(現在の金町2丁目にあたる)に屋敷を与えられた。

『温故録』によると、この櫻町は、もともと江林寺、吉乗院、龍蔵院、善重寺、不動院、高野坊富士別当(富士権現)といった寺院が立ち並んでいた寺町であったが、光圀公が断行した寛文年間の寺社整理によりことごとく移転した。これらの寺院の境内に桜が数多く植えられていたため、屋敷地になった後も桜が目立って多かったために櫻町と呼ばれるようになったとされている。しかし、富士権現の存在が気になる。富士信仰において信仰される神は桜の化身である木花咲耶姫である。もともとこの地に山桜が自生していて、寺院の敷地になったことで桜が守られたため、この地に富士権現が誘引されたと考えることもできるのではないだろうか。それゆえの櫻町とも考えられる。ちなみに富士権現横の坂を「富士坂」と呼んだところから、坂から上町の中心方面へ伸びる道筋を「藤坂町」(現大成女子高等学校付近)としたらしい。

高尾が拝領した屋敷地は江林寺があった場所で、江林寺は岡崎平兵衛によって寛永41627)年に建てられたが、寛文101670)年に立ち退いたという記録があるので、高尾が屋敷を構えたのは、その後ということだけははっきりしている。この頃高尾は50代で、まだお城勤めをしていたのだろうか、それとも隠居して屋敷が与えられたのだろうか。高尾の屋敷の東側には坂があり、通称「高尾坂」と呼ばれるようになったが、元禄31690)年、家督を譲って水戸に戻った光圀公の命により「桜坂」の名称で呼ばれるようになった。それだけ、この地の桜が美しかったからであろう。

この高尾の屋敷に、光圀公は少なくとも数回訪れていたようで桜をめぐる和歌を2首残している。

 老女高尾の局か許の花を見て 

  玉の緒のなかきためしのいと櫻なを幾春もくり返しみん(705*常山詠草番号)

  またの年おなし家にて  幾春もとひよりてみむこの宿のあるしよ花よあかぬ心に

                           (706

(現代語訳)

 705 命が長い例である枝垂桜よ。さらに幾春も繰り返し見よう

 706 幾春も訪れて見よう。この宿の主よ。桜よ。あなたたちを見飽きることのない心

    に。

老齢に達した高尾をいたわり、高尾の長寿を枝垂桜に譬えて願い讃える、光圀公のやさしさが光る、この2首である。光圀公に近侍した日乗の『日乗上人日記』*によると元禄91696)年914日にも、高尾の屋敷を訪れて、供のものに歌を詠むように指示している。隠居後、家臣の家に度々訪れている光圀公だが、女性の家についての記述はほとんどなく、それだけに高尾の存在が特別なものであったことがうかがい知れる。そして桜の花の時期に、その名も櫻町の高尾屋敷で、櫻の歌を詠んでいることは、主従の間に桜をめぐる何がしかのエピソードが存していたことをも想像させる。

また、ここで詠まれている桜は「いと櫻」つまり枝垂櫻である。櫻町の枝垂桜については、幕末、彰考館教授頭取をつとめた青山延光の『櫻史新論』の中に以下の記述が見える。

 水戸有櫻町。相傳古有垂絲櫻姿艶無比。今巳不存。唯金町市人毎歳造垂絲櫻形。以供東照

 宮祭事。即模造櫻町花者也云。

かつて桜町には枝垂桜があって、その美しさが比類ないものだったが、幕末当時にはすでになく、金町=桜町の人々が毎年、水戸の東照宮の祭事に桜を模った造り物を献じているのは、この桜に由来しているのだとの短い記述だが、おそらくここに記されているのは光圀公が歌に詠み、高尾と眺めた枝垂桜であろう。東照宮の祭事に有ったとされる桜の造り物については詳細が伝わっていないが、極めて興味深い。

さて、高尾は元禄101697)年418日*に、80歳でこの世を去った。『水府地理温故録』によれば、高尾は日蓮宗門徒だったらしく、遺品の題目の掛け軸に「元徳院妙秀日乗」の名があり、これを承応2年に授与されたとある。承応2年といえば、光圀公の生母久昌院が日蓮宗に帰依した頃で、早くに法名を得ることが盛んだったので、高尾もこれに従ったのであろうと『水府地理温故録』には書かれている。高尾の亡骸は水戸郊外見川村の妙雲寺に葬られた。光圀公が愛した別荘・高枕亭に程近い日蓮宗の寺院である。この寺は、元々高尾の屋敷があった櫻町の西隣の寺町にあったものが、光圀公の社寺整理で見川村に移転している。光圀公出生と養育に関わった三木仁兵衛・武佐夫妻の墓もここにある。その墓から遠くない場所に高尾の墓があるのだが、初めに記した『玄桐筆記』のエピソードを照らしあわせて考えると、高尾は三木家の縁者だったのではないだろうか。

高尾の一周忌、光圀公は妙雲寺の高尾の墓に手を合わせている。その時に高尾の思い出として、光圀公手ずから境内に枝垂桜を植樹した。それが現在でも妙雲寺の裏手の水戸市見川町にある水戸市立見川小学校の校庭に残る枝垂桜であるといわれている。枯死の危機にさらされながら、小学生や協力する人々の手でしっかりと受け継ぎ守られ、今も美しい花を咲かせている。

【註】

1 高倉胤明『水府地理温故録』(以下、『温故録』と略す。茨城県『茨城県史料・近世地誌編』)P99

2 井上玄桐『玄桐筆記』(水戸史学会編『水戸義公伝記逸話集』常磐神社)P23 ただし、この部分の解釈をめぐっては、様々な説があり、「汝」は高尾を指しているのか、その場にいた光圀公の異母兄の4歳の亀丸をさしているのか、意見が分かれる。そのあたりは下記の吉田論文に詳しい。

3 『温故録』P97

4 徳川光圀『常山詠草』(徳川圀順編『水戸義公全集』上巻、角川書店)P133

5 日乗(16481701)京都から光圀公の招きでやってきた日蓮宗の僧侶。光圀公の生母・久昌院の菩提を弔うために光圀公が建立した常陸太田の深大山禅那院久昌寺の住持となる。隠居後の光圀公に近侍することが多く、その日記は光圀公の事跡を知る手掛かりとなる貴重な資料である。この日、光圀公から歌を詠むことを命じられた日乗は「千世の秋君ぞ来て見む此宿の軒端の松にもるる月かげ」と詠んでいる。

6 青山延光『櫻史新編』(私家版、1880)P19

青山家は水戸に朱舜水の祠堂が移転した際に祠堂守として水戸藩に仕官したことから始まる。祠堂には遺愛の桜が植えられていたことが知られているが、青山家と桜の奇縁については稿を改めて述べたいと思う。

7 高倉胤明編「水府寺社便覧」巻一(国立国会図書館デジタルライブラリー所収)に東照宮の祭礼の記述がみられる。後日詳細に検討したい。

8 『温故録』には「元禄九子四月十八日、八十歳にして卒去」とあるがこれは誤記である。『日乗上人日記』元禄10418日の条に「今日高尾殿死去」との記述があるので、元禄10年であることは間違いない。同日記の424日の条には、日乗が高尾の初七日に妙雲寺に焼香に行っていることが記されている。

9 石川慎斎『水戸紀年』(茨城県『茨城県史料・近世政治編』)P486

【参考文献】

高倉胤明『水府地理温故録』(茨城県『茨城県資料・近世地誌編』所収、1967

井上玄桐『玄桐筆記』(水戸史学会編『水戸義公伝記逸話集』常磐神社、1978

青山延光『櫻史新編』(私家版、1880)国立国会図書館デジタルライブラリー所収

山田孝雄『櫻史』(原典1941年、講談社学術文庫、1990

日乗『日乗上人日記』(同刊行会、1954

徳川光圀『常山詠草』(徳川圀順編『水戸義公全集』上巻、角川書店、1970

吉田俊純「徳川光圀の世子決定事情」(『筑波学院大学紀要』第8集所収2013

木戸之都子「青山延寿研究~履歴と著作目録を中心に~」(茨城大学『人文学部紀要』


 


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